多摩の自由民権運動(九)


自由民権(9-1)


泰明小学校

 「二十三年そりゃ大馬鹿よ 善は急げと書いてある」と俗謡が諷したように、明治14年10月12日に発せられた23年国会開設を約束する詔書は、折からの二つの事件、「北海道開拓使官有物払い下げ事件」(一千万円以上の国費を投じた事業を30万円、無利子、30年賦で政商へ払い下げようとした事件)と「明治14年の政変」(民権寄りの思想を持つ大隈重信一派を政府から追放した事件)で沸き立っている世論を、鎮静化するはたらきがあった。明治23年までまだ9年もあるではないか、その間、藩閥情実政治打倒・国会即時開設と叫び続けるのも疲れるハナシだと、活動家たちはそれぞれ郷里へ引き揚げ、国会待ちの姿勢へと移っていった。
 年改まって、明治15年1月23日、銀座にある東京府公立泰明小学校で、上等小学校(修学期間は10歳から13歳まで。その前に、6歳から9歳までの下等小学校の課程がある)の卒業式が行われた。校舎はモダンな煉瓦造りである。明治5年に、銀座・京橋・築地と34ヶ町、2900余戸を焼く大火があり、政府はこの再建に当たり、市街地の不燃化を図った。計画実施担当者は後年、「道路県令」の異名を取る東京府権参事三島通庸である。三島はお雇い外国人トーマス・ウォートルを起用し、彼はロンドンのリージェント・ストリートに範を取った煉瓦街を設計した。泰明小学校の新校舎もその一つで、その煉瓦造りの講堂で、13歳の北村門太郎(後の北村透谷)は、全校の教員・生徒、来賓を前にして、「空気および水の組成」と題する講演を行った。北村少年は、前年、大蔵省土木属に任命された父と共に、一家を挙げて小田原から京橋区弥左衛門町(現銀座の西部)へ引越してきて、4歳年下の弟垣穂と共にこの小学校へ転入学したのだった。弟垣穂と同じクラスには島崎春樹(藤村)がいた。北村門太郎は、教育ママだった母ユキが12時前には布団に入らせないほどしごいたとはいえ、小田原時代は「平凡な生徒」(同級生の坂本紅蓮洞談)に過ぎなかった。泰明小学校へ転校してから、谷口校長に目を掛けられ、水を得た魚のように、秀才ぶりを発揮する。彼の講演は上出来であった。来賓の一人「明治日報」記者は、「上出来にてありき」と同新聞の雑報欄で報じた。後年、谷口校長も「秀才というか、神童というか、ああいう風なのはなかなかいないんだ」と北村少年を偲んでいる。