多摩の自由民権運動(八)


自由民権(8-1)


石坂昌孝
「石坂昌孝とその時代」町田ジャーナル社刊より転載

 明治11年〈1878〉1月9日、多摩郡野崎村(現小金井市)に住む吉野泰三は、5里ほど離れた野津田村(現町田市)の石阪昌孝邸を訪問した。吉野も石阪も働き盛りの39歳、共に協力し合ってゆこうという吉野の表敬訪問で、後年、この二人が激しく争う政敵の間柄になろうとは、この時点では、想像もつかぬことであった。
 あいにく主人の石阪昌孝は5日前に上京していて、留守であったが、吉野は家人に款待され、同家に一泊した。石阪邸は低い門に高い家構え、納屋二三を配置した庭には椎の木が植えられており、丸い芝生は洋風の雰囲気であった。「洒落可愛」と吉野はその日の日記に記した。
 石阪昌孝よりも11歳年長の義兄弟・小島爲政(鹿之助)の日記によると、この家は475坪の宅地に二棟の土蔵と一棟の物置。母屋は木造草葺き平屋で73坪5合という、27町歩の大地主にふさわしい大邸宅であった。「井戸塀政治家」と言う言葉があるが、石阪昌孝はこれらの資産を政治につぎ込み、明治40年(1907)に66歳で没した時には、わずか5反余の土地が残されるのみだった。
  よく晴れて、風のない午後、その場所を訪ねてみた。「カナチュウ」(神奈川中央交通)野津田車庫のバス停で降り、鶴見川を渡った向かいの岡に「町田市立ぼたん園」があり、その中に屋敷跡はあった。花のない時期ということで、入園は無料である。それでも、散り残った紅葉が美しく、山茶花の紅や石蕗の黄が道端を彩っていた。園の奥に広がる枯れ芝の空き地がその屋敷跡だった。左手の岡の中腹には、「自由民権の碑」と記された石碑があり、その文字の左下には、やや薄れながら、「透谷 美那子出会いの地」と記されていた。岡をさらに登ると、頂上に石阪昌孝の墓がある。鉄柵に囲まれ、入口は施錠されていて、墓前には近づけなかった。

石坂昌孝旧居跡(町田ぼたん園内)

 天保12年(1841)に生まれた石阪昌孝は、生まれ落ちるとすぐ伯父の石阪昌吉の養子となり、この地で成長した。伯父・昌吉は小野路村寄場名主組合(稲城市域の6村、長沼・大丸・百村・矢野口・坂浜・平尾を含む、34ヵ村が加盟)の大惣代で、さらにその上の寄場名主組合の名主として、小島爲政(鹿之助)の父・小島政則が就任していた。石阪昌孝(幼名・高之助)は養子とはいえ、生みの母はこの石阪昌吉家より嫁いでいたので、祖父・祖母にとって彼は実孫に当たり、この二人に溺愛され、高之助は我儘いっぱいに育ったらしい。