多摩の自由民権運動(七)


自由民権(7-1)


現在の紀尾井坂

 西郷従道は兄隆盛の死を東京の自宅で聞いた。大泣きに泣いた彼は、官職を辞する決心をした。それを押しとどめたのは大久保利通だった。しばらく海外を見てくるがよいと、従道のために駐イタリア公使の椅子を用意しようとした。自由民権(5)で述べたように、西郷と大久保は鹿児島の下加治屋町で、「吉之助さァ」、「一蔵さァ」と呼び交わしつつ育っている。幕末の「お由羅騒動」(藩主の側室である大工の娘、お由羅の方が、自分の子を跡目に据えるため、反対派を弾圧した事件)の際、大久保の父親も遠島に処せられ、大久保家は食事にこと欠くほど困窮した。西郷家の食事時、一蔵がのっそりと現れ、黙って座につくことがあった。西郷家では、遊びに行っていた弟が戻ったくらいな様子で、そういう彼に食事を供した。西郷・大久保の間柄はそのようなものであった。しかし、この西郷従道イタリア公使案は、大久保の死で、実現されることはなかった。
 城山陥落から8ヶ月後の明治11年5月14日、梅雨が近い曇り空の朝だった。大久保利通(47歳)は出勤前に訪れた、福島県令山吉盛典と事務上の打ち合わせをした。別れ際に山吉は大久保の顔色がすぐれないことを指摘し、「お体にご留意ください」と言い、大久保は苦笑した。顔色の悪さはこの日に始まったことではなく、西郷軍の亡霊が夜な夜な現れて、彼をさいなむせいだろうと巷では噂していた。午前8時、大久保は赤坂仮御所(明治6年に皇居が焼失し再建中のため、赤坂離宮が仮皇居だった)へ参内のため、馬車に乗り込んだ。金沢士族の不穏な動きについて、すでに内務省より情報が来ていたが、彼は気にせず、お伴は馭者と先駆けの馬丁の二人だけだった。同様な情報は大警視川路利良の耳にも入っていたが、「加賀の腰抜けになにができるか」と川路は取り合わなかった。馬車は清水谷の茶畑の中の道(現在、ホテルニューオオタニの裏の道)を紀尾井坂へさしかかっていた。「淋しい物騒なところさ。平生から人通りの少ない気味の悪い処じゃった」と、近所に住む高島鞆之助(西南戦争で別動第1旅団司令官、後年、陸軍大臣等歴任)は語っている。