多摩の自由民権運動(六)


自由民権(6-1)


田原坂駅

 今年5月末、田原坂を訪れた。むかし一度来たことがあるが、その時は西南戦争戦跡ツアーといったにぎやかな旅だったので、今度はひとりで訪ねてみようと思った。鹿児島本線「田原坂」駅に降り立った時は、午後5時をすこし廻っていたが、夏至も近い頃なので、十分に明るかった。意外だったのは、無人駅だったことだ。駅員ばかりか、周囲に人影がない。駅前タクシーもいない。商店もなければ、家もすこし離れて、二軒建っているだけだ。その一軒を訪れて、案内を乞うたが、誰も出てこなかった。もう一軒も留守だったらどうしようと思いつつ、呼び鈴を押すと、幸い年配の男性が出て来て、親切にタクシーを呼んでくれた。線路の向こう側にあるほんの小高い丘(標高差60メートルという)、それが田原坂だった。高さはないが、一の坂、二の坂、三の坂とうねうねと続く長い坂(1.5キロメートルあるそうだ)だった。頂上に人影はなかった。「西南役戦没者慰霊之碑」と記した白い石塔が建っていて、その下に敵・味方一萬四千三十八名の氏名が横長に記されていた。あまりにも横に長く、どう工夫してみても、全景をカメラに納めることはできなかった。岡の上から見はるかすと、夕焼け空を背景に三の岳のシルエットがあった。その前にある半分の高さの山が半高(はんこ)山で、田原坂の戦いに先立つ激戦地、吉次(きちじ)峠はこの二つの山の間にある。眼下の谷(舟の底のようなので、「舟底」と称される)を越えて、向かいの低い丘は二俣台地で、政府軍はここに大砲12門を据え、田原坂頂上の薩軍陣地へ、1日1千発余の砲弾を送り込んだ。
 坂上の広場には資料館もあったが、もう閉まっていた。ここには「かちあい弾」または「ゆきあい弾」と称される、空中で小銃弾どうしがぶつかって、かたまりとなったものが展示されているそうだ。政府軍が消費した小銃弾は1日平均32万発にのぼるという。資料館の横に、「弾痕の家」と立札建てた土蔵があった。この場所にあった松下彦次郎家の土蔵を、当時の写真(熊本の写真師富重利平氏撮影)をもとに、昭和63年に再現したと説明板に記されていた。この後、七本(ななもと)官軍墓地と七本柿木台場薩軍墓地を訪れた。官軍墓地は市内に21ヵ所あるそうで、ここには300余名が埋葬され、同じ大きさの石塔が、整列する軍隊のように、ならんでいた。薩軍墓地の方は大きな石碑の下に、近辺で戦死した329名が埋葬されているとのことであった。
 明治10年2月27日の高瀬の戦いで、西郷小兵衛を戦死させた政府軍は、勝ちに乗じ、20キロ先の熊本城をめざし南下する。そこへ至る道は、小丘陵や谷の起伏を縫って、2筋しかない。田原坂を越えてゆく本道と、吉次峠を越える間道である。戦闘はまず3月3日に、吉次峠(標高294メートル、「地獄峠」と呼ばれた)から始まった。