多摩の自由民権運動(五)


自由民権(5-1)


軍装の西郷隆盛 ウィキペディアより

 明治10年2月14日(旧暦の正月2日)、鹿児島には粉雪が舞っていた。伊敷村玉江練兵場には1万を越える将兵が集結し、西郷隆盛の登場を待っていた(この日の早朝、別府晋介に率いられる独立2個大隊はすでに先発し、熊本めざし北上中である)。兵士らの服装は和装、軍服とまちまちだったが、皆、白木綿の兵児帯を締め、刀を差し、銃を持っていた。銃は旧式で、種類も雑多だった。まわりを見送り人多数が取り囲み、混雑していた。9時、フランス式のラッパが鳴り響き、陸軍大将の正装に身を固めた西郷隆盛が、副官・護衛兵をしたがえ、背丈のひくい薩摩馬にまたがって登場した。これに従う桐野利秋・篠原国幹は金モールで飾られた陸軍少将の正装、文官の村田新八は燕尾服に山高帽、足は脚絆に草鞋で、刀を差して馬にのり、手には赤い指揮旗を持っていた。粉雪まじりの風がいよいよ吹きつのるなか、歩兵5大隊、砲兵2隊の閲兵が行われ、明十五日より各隊、順次日を追って出発(道が狭いので一時に進発できぬのである)の命令が伝達され、ふたたびラッパが鳴り、式は終った。携行弾薬百発が義務づけられ、不足の者には支給された(この項ならびに以下の文の多くを司馬遼太郎「翔ぶが如く」による)。
 ここに至る経緯は次の通りである。
明治政府になって、旧薩摩藩が所有する四つの火薬庫は陸軍省・海軍省へ移管された。その一つが鹿児島北郊の草牟田村にあった。ここに私学校の分校があり、1月29日の夜、2,30人の生徒が、酒を酌み交わし、時勢を談じていた。話が西郷暗殺の噂におよび、政府がその気なら、こちらから機先を制してやろうじゃないかと、酔った勢いで、深夜12時、弾薬庫へ押し掛け、番人を縛りあげ、4棟ある倉庫の一つから小銃弾6万発を運び出した。