多摩の自由民権運動(三)


自由民権(3-1)


木戸孝允 国立国会図書館(近代日本人の肖像)より

 佐賀の乱は全国にみなぎる士族の不満の小噴火にすぎなかった。大噴火を避けるためには、不満のガス抜きをしなければならない。この目的で、明治7年(1874)2月に、3年前の明治4年に、宮古島の船が台湾南部に漂着し、乗員66名のうち54名が高砂族に惨殺された事件を理由とする台湾出兵が計画された。たった1年前の征韓論騒ぎで、外征はしないと決めたばかりではないかと、木戸孝允は怒り、辞任した。それでも事態は進行し、陸軍中将・西郷従道をトップに陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良を副に、3600名の将兵から成る征台軍が編成された。
 ところが英公使パークスが横槍を入れ、アメリカも輸送船を貸さないと言いだす。弱った政府は外征中止と決定したが、西郷従道はこれに従わず、江戸幕府が残した小さな軍艦2隻に分乗して、5月2日長崎を出港し、5月6日に台湾南部に上陸してしまった(政府はやむをえずこれを追認する)。戦闘は3週間ほどで終了した。戦死者6名、負傷者30名。しかしその後、半年ほどの駐屯中に、マラリヤその他の疫病で531名が病死した。軍医頭は新撰組スポンサーとしておなじみの元幕府御典医・松本順(良順)であった。その後、大久保利通は北京で清国政府と交渉し、賠償金50萬両(テール)を得るが、それは日本側の戦費770萬円を補てんする額ではなかった。