多摩の自由民権運動(二十一)


自由民権(21-1)


沼間守一 Wikipediaより

 大同団結運動の高揚した気分が神奈川自由党員による横浜・津久井屋乱闘事件を引き起こしたことを前回述べたが、当時、政客同士の暴力沙汰は珍しいことではなかった。
 津久井屋事件の2ヶ月前の明治20年10月4日にも、浅草鴎遊館において、一騒動あった。この日、自由党系、立憲改進党系(嚶鳴社)こきまぜての大懇親会が開かれ、170余名が参会した。透谷こと北村門太郎も、石阪昌孝に連れられてこの会に出席していた(佐久間耕治「三大事件と北村門太郎」、「民権ブックス7」)。
 当日の代表者の一人、沼間守一は元幕臣で長崎・横浜で英学を修め、維新の際には、歩兵頭並(大隊長クラス)として日光で政府軍と戦った経歴を持つ。維新後は司法省に勤め、11年におう鳴社を設立し、12年には東京府会議員に選ばれ、15年には嚶鳴社一派を率いて立憲改進党に参加し、この年(20年)7月には東京府会議長へ選出され、意気大いに揚がっていた。当日の幹事の一人である星亨については、彼がまだ不遇で大森在に母親と住んでいたころから知っていた。その頃は殿様と下郎ほどの身分のへだたりがあったから、沼間は星に逢うと、「大森の百姓」と呼び慣れていた。酒癖の悪い沼間は、この席でもいつもの癖で、「おい、大森の百姓」と星に呼び掛けた。激怒した星亨は、(佐久間論文の尾崎行雄の回想によると)「無礼者!飲めとは何だ」「飲ましてやるから飲めというのだ」「なに飲ましてやる?無礼者!後は俺が引き受けるから、野郎共、殴り殺せ!」と星は部下に下知し、という風に事態は推移し、沼間守一はぼこぼこに殴られた。10月8日付けの東京日日新聞は、この事件を次のように報じている。
 「昨七日の紙上に「某氏の遭難」と題し、去る四日浅草鴎遊館にて旧自由党および改進党の人々が集会せし折り、某氏が殴打せられしとの事を記せしが、その某氏の誰たるを知らず、ことに喧嘩もその座切りの事にして、表沙汰には成らざりし事ならんと思ひしになほ聞くところによれば思ひきや、この某氏とは改進党の名士沼間守一氏ならんとは。(中略)その騒動の起因は何によりて然るにや知らざれども、原来、沼間氏はわが東京区部会の議長にして、改進党には一方の旗頭たり、朝野に名声を馳せたる人士なるに、それらの斟酌もなくこれに加ふるに腕力をもってしたるとは驚き入たる事共なり」。
 沼間守一はこれが原因で寝込み、3年後(23年)に死んだ。