多摩の自由民権運動(二十)


自由民権(20-1)


北村透谷

 16歳の北村門太郎少年が、同年の友人石阪公歴に誘われ、神奈川県野津田村(現町田市野津田町)の石阪家を訪れたのは、明治18年6月15日のことであった。横浜共立女学校から帰省中の石阪美奈(20歳)は彼らの食事の給仕をし、後年の彼女の回想の中で、その時、白地を着ていた門太郎少年(透谷)は、まだ実の青い柿の木に登っていたりするのだった(「自由民権(十六)」ご参照)。
 それから2年後の明治20年夏、突然、美奈と門太郎の間に恋が燃え上がる。場所は東京市本郷区22番地(現・東京都本郷区龍岡町22番地)の楽只(らくし)園(別名:慶令居)である。ここは表むき葉茶屋ということになっているが、公歴の父・昌孝が在京中の足場として、明治17年に設けたもので、公歴の東大予備門受験の勉強部屋としても使われた。しかしこの時点では、公歴は2度の受験に失敗し、明治19年12月に米国へ去り、不在である。父・昌孝は明治15年に自由党に入党し、翌年には22名いる常議員の一人に選ばれ(東京を除いて、常議員2名は神奈川県のみで、もう1名は吉野泰三)、16年には南多摩郡自由党の理事長となり、神奈川県自由党を率いる大立者となっていた。17年6月に、神奈川県人談夢会の会員募集の新聞広告が出るが、集合場所は慶令居で、以降、ここは神奈川県自由党員の足溜りとなる。公歴不在でも、門太郎少年がここに出入りできたのは、彼も自由党シンパと認められていたのだろう。慶令居には、共立女学校和漢学科を卒業した美那、東洋英和女学校に在学中の妹登志子、母親などが、野津田の屋敷と行き来しながら住んでいた美那にはすでに婚約者がいた。平野友輔という東京大学医学部別科(6年の本科に対し、4年のコース)を出て、八王子で開業している28歳の医師である。彼は9歳の時に足の骨を折り、終生のびっこであったが、人格・識見ともにすぐれており、なによりも美那の父・昌孝の深い信頼をかちえていた。筋金入りの自由党員で、三多摩自由党幹部の一人である。さらに彼はクリスチャンで、この点でも美那の伴侶としてふさわしかった(美那は明治19年に横浜海岸教会で洗礼を受けている)。