多摩の自由民権運動(二)

自由民権(2-5)

江藤新平の墓

 江藤新平は法廷闘争で、所信を述べるつもりであったろうが、大久保利通は彼にそのような機会を与えず、迅速かつ苛酷に処刑して、反乱の連鎖発生を防ぐ肚だった。そのために彼は行政・司法・軍事の三権を行使する権利を前もって得、犯人を東京へ護送することなく、現地で裁き、処刑するようことを運んできたのである。彼のその計画に、法を曲げてでも、協力する裁判官が必要で、その目的で選ばれたのが河野利鎌だった。彼はかって江藤新平の書生であり、彼の庇護の下に司法省へ入省し、昇進した。入牢した翌日の4月8日に、早くも法廷が開かれた。臨時裁判長・河野利鎌が居丈高な言葉を発すると、縄を掛けられ、白州の筵に座らされている江藤は河野を睨みあげ、「利鎌、それは恩人に対することばか」と静かに言った。河野は蒼白になってうなだれていたが、職務を同僚に譲って、退廷してしまった。4月13日に三回目の法廷が開かれ、早くも結審となった。大久保利通は天皇の名代である東伏見宮嘉彰親王と共に、奥まった場所から、この法廷を見ていた。「除族の上、梟首」と判決文が読み上げられると、それまで静かにしていた江藤新平は立ち上がり、「裁判長、私は」と叫んだ。獄吏が縄尻を引いたため、江藤は尻もちをついた(このため、「腰を抜かした」と言われた)。司法官吏としてこの場にいた安居積蔵は「(あの場で江藤に)“私は”以下の発言の自由を得せしめたならば、当時の明治政府を愧死せしむべき一言を天下後世に残したであろう」と述懐している。「江藤、醜態、笑止なり」と大久保利通はこの日の日記に記した。刑はその日(4月13日)のうちに執行された。江藤新平は「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」と三度叫んで、斬られた。41歳。「驚いた才物だよ。ピリピリしていて実にあぶないよ。だもんだから、大久保の留守中に、何でもかんでも片っぱしから自分でさばいてしまったよ。そうしてとうとうあんな最後を遂げてしまったがね」とは勝海舟の江藤評である。島義勇も梟首。ほかに斬罪11人。懲役3年から10年まで104人、禁固刑から懲役2年まで55人。士族除族239人、無罪放免11,237人という判決であった。
(中村 聰)