多摩の自由民権運動(二)

自由民権(2-4)

佐賀城 鯱の門に残る弾痕

 佐賀へ入った江藤新平・島義勇は、それぞれ征韓党、憂国党の首領にかつぎあげられた。キヨロマの岩村高俊は、熊本鎭台兵650名とともに海路佐賀に着き、2月15日に県庁のある佐賀城へ入った。翌16日、征韓党・憂国党連合軍は攻撃の火ぶたを切った。県庁側は佐賀城を支えきれず、18日朝、権令・岩村一行は、包囲を強行突破して、県外へ逃亡した。大久保利通は19日に博多に着くと、ここに本営を置き、20日に歩兵2大隊、砲兵1隊からなる政府軍を佐賀へ進撃させた。勝敗は22日たった一日の戦闘で決し、征韓党・憂国党連合軍は敗れた。23日、江藤新平は敗北を認め、征韓党の解散を宣言した。島義勇は反対し、憂国党はその翌日も戦闘を継続する。島は烏帽子に陣羽織といういでたちで馬に乗り、日の丸の軍扇をひらめかせながら、兵を励ました。江藤の方は、23日夜、数人の従者と共に、西郷隆盛の決起を促すべく、舟で鹿児島へ向かった。「いいか、いたずらに悲愴を好み、大勢のきまったいくさをなおも戦って死ぬのは、匹夫のやることだ」と司馬遼太郎は「歳月」の中で、江藤新平に語らせているが、「敵前逃亡」とそしられても仕方のない行為だった。この頃、西郷は猟師然と山野で狩に明け暮れ、どこにおるか所在を知る者もすくなかったが、桐野利秋に教えられて、やっと面会へとこぎつけた。しかし、西郷は立たなかった。密談は二日におよび、「私が言うようになさらんと、あてがちがいますぞ」という西郷の大声が、隣室に洩れ聞こえたと伝えられている。次に江藤一行は海を渡り、土佐で「くろうとの謀反人」林有造に会ったが、「暴発はしない」というのが彼の答だった。江藤達は困難な山越えをして、3月28日、四国東海岸の甲浦(かんのうら)へ出たところで、逮捕された。彼らは陸路を高知へ檻送され、高知からは、示威のため土佐沖を遊弋していた軍艦「猶龍(ゆうりゅう)」に乗せられ、佐賀へ運ばれ、4月7日、佐賀城内の牢に入れられた。