多摩の自由民権運動(二)

自由民権(2-3)

島義勇 ウィキペディアより

 佐賀の情勢を憂慮した三条実美は、江藤の征韓党と対立する憂国党の首領・島義勇(よしたけ。北海道開拓使判事、秋田県権令、明治天皇の侍従等を歴任。副島種臣の従兄弟)へ現地に行って、鎮静化に努めて欲しいと依頼した。島義勇が佐賀へ向かうために乗り込んだ船には、同じく佐賀へ赴任する岩村高俊も乗り合わせていた。船中、キョロマの岩村高俊は、取巻き相手に、議論倒れの佐賀人を高声にののしり、聞きとがめた島義勇の弟・重松基吉(養子に出たため異姓)と掴み合いの喧嘩を演じた。翌日、船内に岩村一行の姿が見えない。船員に尋ねると、下関で下船した、下関で南周りの船に乗り換え、熊本に上陸し、熊本鎭台の兵を引き連れて、佐賀に乗り込む予定だそうだと、船員は島達に教えてくれた。文官が兵を引き連れて佐賀に赴任する、なんたることだ。平和を求めても、佐賀は討伐されようとしている。起つしかない、と島義勇は掌の中の袂時計を強く握りしめ、時計は割れ、鮮血が掌を染めた(と、司馬遼太郎は「歳月」の中で描写している)。島義勇は江藤新平と仲が悪かったが、ここで彼は江藤と手を握る決心をした。
 明治7年(1874)2月11日、島義勇の船が長崎に到着するすこし前、江藤新平は西郷が立つか否かを探らせに薩摩へ送った門下生二人ならびに客と面談していた。「西郷は立ちそうにもない」というのが門下生二人の答えだった。客はキョロマの兄・林有造で、かれも同意見で、西郷が立たぬ以上、土佐も立ち上がれないと述べた。「くろうとの謀反人」(と司馬遼太郎が評する)林は、この後、西南戦争が起こるや、土佐立志社の大江卓その他を率い、陸奥宗光と共謀して、官軍の背後を襲うため、大阪城占領を計画した。この陰謀は未遂のうちに露顕して、彼は禁固10年の刑(大江も10年、陸奥は5年)に処せられる運命だが、この時は決起するにはまだ早いという意見だった。林有造が辞去した後、もう深夜になっていたが、到着した島義勇が江藤を訪ねて来て、船中の見聞を話した。江藤は激昂し、即時挙兵を唱える島に同調した。しかし、彼等がこのような会話を交わした前日、すなわち、明治7年2月10日に、大久保利通はすでに動いていた。三条太政大臣に、特別に申請し、佐賀問題に限り、行政権・司法権・軍事権の三権を一手に掌握する許可を得ていた。そして彼は2月14日には船で横浜を出港し、博多をめざしている。江藤新平が佐賀に入ったのは、この一日前の13日で、反乱はまだ煙も立っていない段階である。