多摩の自由民権運動(二)

自由民権(2-2)

岩村高俊 ウィキペディアより

 このような折、2月3日に、憂国党が政商・小野組より強奪的に金を借りるという事件が起こり、中央には征韓党が(挙兵の資金を得るために)小野組を襲ったと伝えられた。小野組とは、長州閥の長谷京都知事・槇村参事と転籍問題で争い、厳正無比の司法卿・江藤新平の審判のお陰で、長州閥の二人に苦汁を飲ませることができたあの小野組である。「狡猾な」(江藤の言)長州人は、このほかに山城屋和助事件、尾去沢銅山事件と、正義の江藤新平に苦しめられており、彼に憎しみを抱く者が少なくなかった。憂国党が小野組を襲ったというのは誤報であったが、この報を受けた大久保利通は、待ちかまえていたかのように、すばやく行動した。翌4日には、熊本鎭台へ出兵を命じ、大久保自身も指揮をとるべく西下を決定した。いや、すべては「愚鈍な薩人」(江藤の言)であるはずの大久保利通が仕組んだわなだったかも知れない。すでに、これに先立つ1月28日に、内務卿大久保は佐賀県権令岩村通俊を弟の岩村高俊に交代させる手を打っている。土佐の士族の出である岩村三兄弟(長男・通俊、次男・林有造、三男・高俊)のうち、長男(後に農商務大臣、男爵)と三男(各県知事を歴任し、男爵、貴族院議員)は官界に身を投じたが、次男の林有造のみは「兄弟といえども志は同じからず」と反政府運動である自由民権運動に挺身した(彼も後に、第一次大隈内閣の逓信大臣、第四次伊藤内閣の農商務大臣を歴任している。戦後の衆議院議長・林譲治は次男)。岩村高俊が佐賀県権令に任命されたことを知った木戸孝允は「人もあろうに岩村高俊のようなキョロマ(軽率で無思慮という長州方言)をやるとは」と慨嘆した。傲慢無礼なこの男は、明治元年、23歳で東山軍先鋒の軍監として、戊辰戦争へ従軍すると、会津藩を和平恭順の線で説得すると懇願する長岡藩家老・河井継之助(41才)の願いをにべもなくはねつけ、追いつめられた継之助をして、ついにみずからガトリング砲を射ちまくる徹底抗戦へ立ち上がらせたという前科があった。