多摩の自由民権運動(十九)


自由民権(19-1)


ヴァスコ・ダ・ガマ

 西欧列強の東洋進出は、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマのインド到着(1498)、スペインのマゼランのフィリピン到着(1521)で始まった。彼らの目的は香料の入手だった。やがて、英国がインド、ビルマ、マレーへ、フランスがインドシナ半島へ、オランダがインドネシアへと進出する。17世紀以来、東洋貿易で争ってきたオランダと英国は、1824年(文政7年)に協定を結び、マラッカ海峡を境として、東を英国の勢力圏、西をオランダの勢力圏と分け合った(英蘭協約)。英仏蘭の三国はそれぞれ東インド会社を設立した。英国東インド会社の私設軍隊は、1757年にベンガル太守軍を破り、やがてインド全土を征服し、女王殿下のインド政庁へと道を開いた。現在12.5億の人口をかかえるインドには23の公用語があるが、この国の日常を動かしているのは準公用語の英語である。やがて英国は金になるアヘンをインドで栽培し、それを中国へ輸出する。硬骨官僚・林則徐が広州でこのアヘン積荷を処分したことから、第一次(1840~42)、第二次(1856)と二度にわたるアヘン戦争が勃発し、第二次では英仏連合軍が主都北京へ迫る事態となり、それは「眠れる獅子」清国が実は「眠れる豚」であることを世界に暴露した。フランスは1884(明治17)年6月、北ベトナムで清国軍と砲火を開き、8月には仏艦隊が台湾の基隆と対岸の福州を攻撃した(清仏戦争)。ロシアは、1706年にカムチャッカを占領し、弱体化した清朝からアイグン条約(1858)、北京条約(1860)、イリ条約(1879)と国土をむしりとり、1898年には旅順・大連を租借した。米国も、ハワイを併合し(1897)、米西戦争(1898)で、スペインを追い出してフィリピンを領有(1898)し、バスに乗り遅れまいとする。その結果、20世紀初頭に、東洋で西欧の侵略に抗して独立を維持し得ていたのは、日本とシャムのみとなった。