多摩の自由民権運動(十八)


自由民権(18-1)


 明治15年末の福島事件から始まり、高田事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件、名古屋事件、飯田事件、大阪事件と続いた激化諸事件も、明治19年6月の静岡事件をもって終息した。一見ばらばらに見えるこれら諸事件も、実は東日本民権家の連携による一大反乱計画が齟齬を来した姿だった。「加波山の連中が期をあやまったもんだから、計画はめちゃめちゃになりました。」と秋田県の自由党員・石塚三五郎は語っている(「明治叛臣伝」)。服部之総も「相関連する自由党諸事件を各地べつべつの単独事件として処理した絶対主義者の智慧」と指摘している(「原敬百歳」)。「静岡県は自由民権運動では後進地」(森長英三郎「裁判 自由民権時代」)と言われるが、掉尾を飾る静岡事件において、静岡の岳南自由党の山岡音高、浜松の遠陽自由党の中野次郎三郎(共に士族出身)は、静岡に隠棲している前将軍徳川慶喜の担ぎ出しを計っている。徳川慶喜が静岡に隠棲した際、多くの幕臣が彼に従って同地に移住した。彼らは金谷原を開墾して、茶を栽培し、また周辺農民への金貸し業などを営み、同地に官憲の容喙を許さぬ集団を形成した。多くはいまだ帯刀しており、なにかというとすぐ白刃をひらめかすので、静岡警察署もはれものにさわるようにしている。中野次郎三郎はこの金谷原の幹部某と近づきになり、挙兵計画を打ち明け、「金谷原には、鉄砲はすくないが、刀剣はいくらでもある」という言質を得た。しかし二度目に会うと、「慶喜公に累を及ぼすと、強い反対意見がある。お約束だから、刀剣だけはご用立てする」とトーンダウンしていた。
 岳南自由党も遠陽自由党も当初は挙兵による政府転覆で、挙兵には資金が要る、さらに同志の離反防止には犯罪に荷担させるが良いという発想から、盛んに強盗を行った(判決によると14件、他の研究によると17件。「裏切りを防ぐための強盗というのでは、やくざの世界の申し合わせ」と森長英三郎は批判している「裁判 自由民権時代」)。しかし、先行の激化諸事件がことごとく失敗に終わり、政府転覆の容易ならぬことが判ってきて、岳南・遠陽両自由党の幹部も挙兵主義から暗殺主義へと変わってきた。そのうちかねて新築中だった箱根離宮が完成し、明治19年7月10日落成式の運びとなり、天皇が行幸すると聞き及び、そこを襲撃して君側の姦を一掃しようということになった。ところが自由党員でもいささか名の知られた小勝俊吉がこれを警視庁へ密告し、一味は6月12日に一網打尽となる(逮捕者総数は100名を超えた)。この事件の特徴は、先行の秩父事件等と異なり、民衆と連帯しようという動きが全く見られぬ点であり、また徳川慶喜を担ぎ出そうという幕臣的アナクロニズムや後のテロの隆盛を窺わせる暗殺主義で、透谷が大阪事件の段階でいち早くこれらの運動から身を遠ざけたのは、正しい判断と言うべきであろう。