多摩の自由民権運動(十七)


自由民権(17-1)


小田原文学館

 透谷の生まれた土地を一度見ておきたいと思いながら、のびのびになっていたが、7月半ば、もう十分に暑いのだが、これ以上暑くなったらとても行く気にならぬと、通学時間帯と見えて、学生風の若者の多い小田急へ乗った。最近、ウクライナやパレスチナの紛争激化で、戦禍に痛めつけられる人々の映像を見ることが多く、それがかつての夏の一面の焼け野原とだぶって見える世代としては、座間、海老名、厚木と沿線に立ち並ぶまばゆいばかりのビルや家々を見ても、築何年だろう、20年?、30年?、その前はといった目で眺めた。やがて田園地帯に入り、一面の青田が広がってきたが、TPPを呑まされた後では、この青田も「桑田変じて海となる」かとペシミステックな気分に陥るのだった。もう透谷の憂鬱の毒は十分に廻ってきたようだ。
 小田原駅西口からバスに乗り、まず小田原文学館へ行ってみた。「箱根口」下車。桜並木(花時はさぞ素敵であろう)奥の瀟洒な洋館がそれだった。明治の元勲、天皇の親任あつく、11年間宮内大臣を務めた田中光顕伯爵の別邸だったそうだ。文学館の受付には女性が一人いるだけで、客は小生一人だけだ。

顕彰碑

 一階・二階に展示品が並び、応接室風の三階は休憩室で、皮のソファーが並び、豪奢な雰囲気だった。テラスへ出てみると、屋根瓦は凝った瑠璃瓦で、夏霞に包まれた箱根山はまぢかに迫り、青空に白雲が流れ、駿河湾より吹き寄せる海風はここち良く、伯爵になった気分だった。文学館でまず認識を改めさせられたのは、小田原ゆかりの文学者の多さだった。川崎長太郎と尾崎一雄の出た街くらいに思っていたが、谷崎潤一郎・北原白秋・三好達治・坂口安吾・岸田国士・北原武夫・北条秀司らもかつて住んでいたそうで、ゆかりの品が展示されていた。透谷は中でも別格らしく、写真や遺品は二階中央のガラスケースに収められていた。8月から9月にかけては「北村透谷 アンビションのかなたに」と題した特別展開催、9月9日には市の学芸員による講演会があるとポスターがはってあった。お目当ての顕彰碑は青芝の庭の端にあった。説明板によると、最初の建立は、島崎藤村の肝煎りで、昭和4年に城山にある神社境内に建てられ、それが昭和29年に小田原城内へ移され、さらに平成23年に現在の場所へ移築された由である。今でさえ見上げるような大きな碑であるが、最初の碑は今の3倍ほどもあり、それが小田原城内へ移築の際小さくなり、さらにこの場所へ移される際、半分ほどに縮められたそうである。芝生の端は緋鯉の泳ぐ池になっていて、そこに掛かっている朱塗りの橋を渡ると、移築された尾崎一雄邸になっていて、こじんまりしているが、座敷には将棋盤が出されていたりして、安気な暮らしをうかがわせた。その隣はこれも移築された北原白秋童謡館で、二階建ての豪邸といった趣で、数多い畳の部屋を一渡り見て廻ったが、本格的な日本家屋に住む心地良さというものが窺えた。庭にはみみづくを模した離れもあった。