多摩の自由民権運動(十六)


自由民権(16-1)


大井憲太郎(「自由党大阪事件」より)

 三多摩自由党の総師・石阪昌孝には長女美那、長男公歴、次女登志と三人の子供があった。明治18年6月15日、北村門太郎(透谷、16歳)は、同年の友人石阪公歴に誘われ、神奈川県野津田村(現町田市野津田町)の石阪家を訪れた。姉の美那(20歳)は横浜共立女学校に入っていたが、たまたま帰省していて、門太郎・公歴への食事の給仕をした。門太郎は髪の毛を長く伸ばし、女の柄のような白地の着物を着ていた。書物の話をしていると、「それは何ページにある」とすぐに答えるので、頭がいいのだなーと美那は思った。石阪家には多くの民権壮士が出入りしていたが、日頃彼女が目にするそのような青年たちとはまるで違うタイプだった。美那の回想の中で、白地を着た透谷は、その時、まだ実の青い柿の木に登っていたりするのだった。
 その頃(6月末)の某夜、透谷の心友、大矢正夫は、大井憲太郎に命じられた強盗を実行するため、山本与七に率いられる他の6名と共に、栗原村の大矢弥市宅へ忍び寄った。しかし、警戒厳重で果たせなかった。ついで7月、第2回として、愛甲郡役所から公金が藤沢の本金庫へ送られるとの情報に接し、大矢は他の2名と共に、途中でこれを奪おうとした。しかし、その日にかぎり経路変更となり、失敗だった。第3回は、大矢ほか4名で、愛甲郡役所の金庫を襲撃しようとしたが、これまた成功しなかった。第4回は10月20日の夜で、大矢正夫、菊田粂三郎、長坂喜作の3名で、第二期租税として集められた金を目当てに、座間村役場を襲い、これは首尾よく、1172円を獲得した。しかし、この成功が最初で最後だった。