多摩の自由民権運動(十五)


自由民権(15-1)


 伊藤仁太郎という男がいた。横浜出身。年小の頃から民権運動に参加し、同志から「横浜小僧」と呼ばれた。民権講釈師となり芸名「痴遊」。彼は、講釈師らしく歯切れよく、「激化事件の年」と呼ばれる明治17年を次のように総括している。「政府の圧迫が激しくなり、国会開設請願運動に従事している者の生活の上にまで干渉の手が延びてくるところから、民権の志士たちは不安の念を抱くようになった」、「この調子で十年もやられたら、同志の者はみな倒れてしまおう。いよいよ初期の国会は開けても、政府の味方が多く当選して、われわれが今までに唱えて来た説はひとつも行われぬことになろう。今のうちになんとかせねばならぬ」、そしてその結論は「手短にやっつけてしまえ」ということで、二説あり、「一つは、大がかりの陰謀でゆこうというのであったが、他の一つは目星をつけた大官を、二人でも三人でも、端からボツボツ片づけてゆけ、というのであった」と述べている(「自由党秘録、政府転覆篇」)。
 「暗殺派」・「挙兵派」入り乱れての激化事件であるが、そのどちらにも共通しているのが、枯渇している資金を補おうとしての強盗である。静岡事件に至っては50余件も犯している。従って発覚後は、彼らが望む国事犯としてではなく、常時犯として、地方裁判所にて「窃盗罪」で裁かれている。強盗をやらなかった唯一の例外は、人格者村松愛蔵(衆議院議員を経て、晩年は救世軍で活躍)率いる飯田の自由党が、名古屋鎮台兵をオルグして、伊那の天険により挙兵し、全国に呼び掛けようとした飯田事件のみである。その法廷で、村松愛蔵が、「日本の政治はかくのごとくだから、当路の政治家に誤られつつある、この状態をもって進んでいったならば、わが国の前途はどういうことになるかと思うと、実に寒心のいたりにたへぬ」と声涙くだる陳述をすると、立ち会いの検事のみならず、裁判長までも思わずもらい泣きしたと痴遊は述べている(「明治裏面史続編」)。
 この激化事件の終点は、明治18年11月23日に計画が発覚する大阪事件であるが、その特色は国際化で、民権壮士が海峡を渡り、朝鮮でことを起こそうとしている。朝鮮はわが国にもっとも近い外国で、彼我の因縁は浅からず、われわれの祖先は思いのほか深いご縁がある。天皇陛下は、平成13年、誕生日を前にしての記者会見で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と語っておられる。北村透谷の祖先も渡来人で、北村家の「過去帳」によると、百済の聖明王の第三子琳聖太子が、推古天皇5年(597)に日本に渡来し、聖徳太子に仏像と書籍を献上し、山口県防府に住み着き、大内氏となったのが彼の祖先だそうである(李淙煥(りしゅうかん)「韓国における透谷研究」)。