多摩の自由民権運動(十四-上)


自由民権(14上-1)


 埼玉県最西部の秩父郡はほとんど四方を山に囲まれた盆地で、明治10年代の耕地化率は6.4%で、5万の住民の食をまかなうには、米で郡内生産高の3.5倍、麦で3分の1を郡外から輸入せねばならなかった。山奥の村では、栃の実や栗の実で食糧不足をおぎなった。納めるべき年貢米とてないから、徳川時代から年貢は金納である。農産物以外で現金収入を得ようとする努力が、この地に養蚕・製糸・絹織物生産の隆盛をもたらし、江戸時代初期すでに「秩父絹」というブランド名が確立されていた。安政6年の横浜開港と共に、生糸輸出が脚光を浴び、秩父は織物ではなく、原料の生糸供給地へと変わったが、農民はくず糸を利用した太織り(秩父縞)を発明し、なお最終製品(絹織物)供給地の伝統を守った。生糸価格は明治15年までに3回の高騰を示す。好況時には、講釈師や義太夫語り、俳諧師らが相次いで秩父をおとずれ、田舎歌舞伎やばくちが流行し、つかの間のはなやぎをこの地にもたらした。しかし松方デフレは状況を暗転させる。明治15年から17年までに、(明治16年に世界恐慌が始まり、ヨーロッパで生糸相場は暴落する)生糸価格は半値になった。養蚕農家は大打撃を受け、金繰りに苦しむ農家を餌食に、高利貸は甘い汁を吸った。銀行制度の整っていない時代ゆえ、金を貸してくれるのは、高利貸しかない。しかし、養蚕で現金収入の味をしめた農民は、なーに好況が戻ればこんな借金は簡単に返せると思っていた。しかし不況は長引き、借金はみるみる増えていく。明治17年、大宮裁判所への貸金請求裁判は270件をかぞえ、身代限りは、大宮郡役所管轄下だけで、700戸余といわれた。裁判所からの差紙(召喚状)を受け取らぬように、家を出て山野をさまよう者(透谷のいう“惨野の流民”)は百余名にも達した(警察の調べ)。
 この惨状の打開に、最初に動いたのは、上吉田(かみよしだ)村の高岸善吉(通称「紺屋(こうや)の善吉」、35歳、没落中農)、同村の坂本宗作(「かじ屋の宗作」、29歳、貧農)、石間(いさま)村の落合寅市(「ハンネッコ(地名)の寅市」、33歳、貧農)のトリオで、彼らは「博徒で、加藤織平の子分」と供述しているが、上記のように、それぞれ生業を持つ生活者である。このころ、青梅付近の農民達が、借金を軽減するよう高利貸しを説諭して欲しいと警察に願い出たら、警察が口をきいて、なんと10年据置き、40年年賦という成果をかちとったという噂(まったくの誤報)が流れた。それならわれわれもと、明治16年12月、三人は秩父郡役所へまかり出て、高利貸し説諭をお願いした。しかし、郡役所は書式に難癖をつけて、受理をこばみ、警察に行っても、同意のうえ借りたのだから仕方がなかろうと取り合ってもらえなかった。彼らは高利貸への直接交渉も試みた。だが、たとえば大宮郷の高利貸し稲葉禎助の場合、禎助は「警察へ願い出ても無駄だよ、われわれは警察へ毎月15円納めているのだからな」とうそぶく始末だった。最初は借金を軽減して欲しいという単純な請願だったが、やがて、自由民権の智慧者が智慧を付けたのか、(1)借金の10年据置き、40年年賦(2)学校(経費が地元負担である)の一時休校(3)諸税(雑収税、村費等)の減免と、要求は具体的になり、政治色を帯びてきた。
 明治17年に入ると、世相もとげとげしくなる。1月24日の「木公堂日記」(柴崎谷蔵)には、10日ほど前から、小鹿野町の高利貸の家に夜ごと「火札(放火予告)」が貼られたと記されている。なかでも常磐屋(高利貸)への火札は激烈で、「生首ヲ取其上焼払」という文言だったそうだ。
 困民党の首領にかつがれる、大宮郷の田代栄助(50歳)が自由党へ入党しようという気を起こしたのもこの頃だった。