多摩の自由民権運動(十四-下)


自由民権(14-1)


 官側は本部を寄居に置き、警官約430名、憲兵3小隊、鎮台1中隊、これを4方面(寄居口、飯能口、八幡山口、小川口)、7ヶ所へ配備し、秩父から平野への進出を防ぐ包囲態勢を布いた。この態勢は4日には確立した。
 4日午後、本部が瓦解したことを知らぬ出先部隊は戦い続けた。寄居町から平野部への進出をもくろんでいた「天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」の大野苗吉(22歳)率いる一隊(2~300名)は、寄居にはすでに憲兵が入っているとの報告に、方向を転じて児玉町をめざし、秩父新道を北上する。他方、急派された東京鎮台歩兵一箇大隊(4箇中隊)は、3箇中隊が寄居、1箇中隊が児玉町へと振り分けられ、4日夕刻にはすでに臨戦態勢に入っていた。午後11時30分、月明の下、児玉町の家並みのはずれが秩父新道と丁字路をなす付近で、敵味方は激突した。
 困民軍は沿道の民家から畳を運び出し、道路の中央にバリケードを築き、鎮台兵を迎え撃ち、「弾丸雨ノ如キ」銃撃戦となった。「ピカピカ火ノ出ル」火縄の火は「アタカモ群蛍ノ飛散スルゴトク」、この火をめがけて、新鋭村田銃は火縄銃1発に対して20発の割合で火を噴いた。やがて鎮台兵は「打チ方ヤメ」の号令に、30名ほどが抜刀して前進してくる。隊長大野苗吉は、ひるむ困民軍の先頭に立ち、「ススメススメ」と励ましていたが、やがて弾を受け、かたわらの家の戸前に倒れた。「金屋(かなや)の夜戦」と呼ばれるこの戦闘で、困民軍は死者10名(4名は収容後死亡)、負傷者9名。軍隊・警察側は負傷者4名であった。