多摩の自由民権運動(十三)


自由民権(13-1)


 激化事件の明治17年、十六歳の北村門太郎(透谷)はなにをしていたか?「自由民権(十)」で述べた彼の動静をおさらいすると、前年の三月から五月、彼は速記術を習得した上で、神奈川県会の臨時書記となり、夜は英語習得のために、横浜グランドホテルでボーイを務めた(外人の注文が判らず、尻を蹴られるなどの屈辱を体験した)。この後、9月に東京専門学校政治経済科へ入学し、1年たらずで退学(学費未納による除籍?)するが、授業には出ず、図書館で本を読んだり、「トラベラー」とあだ名されるほど旅に出たりしている。また同じく16年10月に神奈川県出身者のための在京寮・静修館に入り、相模原の座間村出身の民権青年・大矢正夫(20歳)と知合い、意気投合している。大矢正夫は、小学校上等八級を卒業してから、家が貧しかったため、いくつかの小学校を助教として転々し、その間、結婚・離婚を経験し、明治17年に「時勢に感激する所あり、深く決する所ありて、断然教職を辞し、父母の承認を待たずして、東京に遊学す」(大矢正夫自徐伝)。大矢の静修館在寮時代に特筆すべきことは、透谷との親交以外に、加波山事件のリー・オ档_ー富松正安と、寮の監督者水島保太郎(自由党急進派の幹部)を介して、知り合っていることで、「正夫が脚気にかからざりせば、おそらく加波山事件の一人たりしならん」と自徐伝で述懐している。とにかく在京寮・静修館は民権青年の巣窟で、透谷はその影響を受け、自分のこれまでの志望は利己的であったと反省し、今後は「憐れむべき東洋の衰運を回復すべき一個の大政治家となりて、おのれの一身を苦しめ、万民のために大いにはかるところあらん」、「己の身を宗教上のキリストのごとくに政治上に尽力せん」と述べている(明治17年8月18日付け書簡)。

秋山國三郎 (町田市立自由民権資料館 色川大吉「北村透谷」 東京大学出版会)より転載

 そして「土岐」、「運」、「来」(「革命」の時運来る)と染め抜いた半纏をまとい、地方を行商して歩いた。これは自由党の教宣活動の一つであろうと思われるが、「透谷の短い一生の中には、すっぽりと白く抜けた空白期があった。彼が民権運動に参加したといわれる三、四年である。そのころ透谷は革命の夢を抱いて多摩地方を放浪していた」(色川大吉「北村透谷」)と記されているように、彼の当時の行動の詳細は不明である。ただ判っていることは、明治17年の7月下旬に、単身で富士登山を試み、その途中、八王子川口村に寄り、脚気療養のため転地し、かたわらそこの小学校で教鞭を執っている大矢正夫を訪ねて、宿の主人・秋山国三郎と知り合ったことである。そしてふたたびこの年の晩秋から翌明治18年の早春に掛けて、この川口村を再訪し、大矢・秋山と三人で、彼の不幸な一生の中で、例外的に健康な幸福感にいろどられた「幻境生活」を送っている。それは明治25年に往事を振り返り、彼が「白表・女学雑誌」に発表した「三日幻境」によると、次のようなものであった。「むかしわれ滄海(註:大矢正夫)とともにかの幻境に隠れしころ、山に入りて炭焼き、薪木樵(たきぎこり)の業(わざ)を助くるをこよなき漫興となせしが、またある時はかの家の破衣(やれぎぬ)を借りて、身をやつしつ炭売り車の後につきて、この市(まち、註:八王子町)に出づるをも楽しみき」、「われを酔はしむるに濁酒(にごりざけ)あり、われを歌はしむるに破琴(やぶれごと)あり、ほしいままにわれを泣かしめ、ほしいままにわれを笑はしめ、わが素性(そせい)をまげしめず、われをしてわが疎狂をしるはひとり彼のみ、との嘆を発せしめぬ。おもむろに庭樹をながめて奇句を吐かんとするものはこの家の老畸人、剣をぶし時事をうれふるものは滄海、天を仰ぎ流星を数ふるものはわれ、このみたり一室に同臥同起して、玉兎(ぎょくと、註:月)いくたびかかけ、いくたびか満ちし」(読みやすいように、原文の漢字のいくつかをかなにひらいた)。つまりこれはシティボーイ透谷の下放体験である。それでは透谷北村門太郎を迎えて、このようにもてなした老畸人・秋山国三郎とはいかなる人物であったのか。