多摩の自由民権運動(十二)


自由民権(12-1)


山県有朋  国立国会図書館 近代日本人の肖像より

 明治16年秋、山県有朋は、その日の朝も、足軽時代から日課となっている槍を振った。「一介の武弁じゃからのう」というのが、彼の口癖だった。「彼の生活は外から見て少しも面白くないものだった。酒は飲んだが、女はつくらなかった。羽目を外して騒ぐということもない。もし、ほかの者が騒いでいる席に彼の長身が入ってくると、すっと影が射したように一座が暗くなるのであった。彼は和歌と庭を愛した。それ以外に道楽というものはなかった。」(松本清張「象徴の設計」)。
 いま彼はみずから作庭に関わった椿山荘の庭を散策している。かたわらにいるのは、おなじ長州の足軽出の伊藤博文である。松本清張の描写をさらに続けよう。伊藤は山県に言う。「政治をのぞいてみるのも、ええもんじゃ」、「おぬしも、ちっとサーベルをはずしてみい。眼(め)ン玉が大きゅうなる。ここらで民党の撲滅を考えてみるのも面白かろう」。山県は伊藤の提案を容れた。
 明治16年12月12日、山県は第九代の内務卿に就任する。
維新によって成立した太政官政府における内務卿の地位は、初代・三代・五代と大久保利通、二代木戸孝允、六代伊藤博文といった顔ぶれが示すように、実質的に首相ポストである。以後、明治18年に太政官制度が廃止され、内閣制度となり、内務省・内務大臣と名称が変わっても、山県は一度掴んだこのポストを手放さなかった。初代、二代、三代と山県内務大臣であり、三代目に至っては、総理大臣兼任である。

伊藤博文  国立国会図書館 近代日本人の肖像より

 明治14年に国会を23年に開く旨の詔書が出されたが、政府はその後、人民の意向などに配慮することなく、どしどし憲法制定作業を進めていった。板垣退助ひきいる自由党土佐派は、それに異議申し立てもせず、「平和なる改革者」を自称して、待ちの姿勢だ。松方デフレの下、議会準備政党化した自由党への支持層は崩落し続け、脱党者は相次ぐ。このまま推移すれば、有司お手盛りで、ろくな憲法は出来まいと心ある民権家は焦り始めた。明治15年6月、政府は刑法を改正し、治安対策色濃厚な新刑法が出来た。同時に集会条例も改正され、16年4月には新聞紙条例改正、同6月出版条例改正と言論・集会・結社への締めつけは強化されてゆく。追い打ちをかけるように、政府は憲法の中へ、発案権と弾劾権は入れないつもりだとの噂が流れ始めた。もはやこれまでと、合法活動に見切りをつけ、非合法活動へ走る民権家も出てきた。激化事件の明治17年はこのようにして明けていった。