多摩の自由民権運動(十一)


自由民権(11-1)


松方正義  国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

 明治10年の西南戦争の戦費をまかなうため、太政官政府は不換紙幣を乱発し、戦後、インフレが起こった。時の大蔵卿・大隈重信(肥前)は、外国から金を借り(外債)、それで銀貨(日本は当時、銀本位制)を得て、不換紙幣を償却して行けばいいじゃないかという「積極財政」説だった。次官(大蔵大輔)の松方正義(薩摩)は大反対で、自己の意見を具申し、大隈から大目玉をくらった。ところが、明治14年の政変で、大隈が追放され、大蔵卿の椅子が松方正義へころがり込んだ。腕をぶして立ち上がった松方は、念願の「緊縮財政」を実行に移した。効果はてきめんだった。日本中を不景気風が吹き荒れた。いわゆる「松方デフレ」である。 神奈川県の米価は明治14年に1石あたり11円17銭だったのが、明治17年には5円40銭とほぼ半額になった。生糸も明治14年と16年の間に35%(別の統計によると明治13年と15年の間に60%)も下落した(「稲城市史 下巻」)。
 税金が払えないため土地や財産を公売に付される者も増え、16年3万人余、17年8万人余、18年10万8千余人と増加する。その一人当たりの税金不納額はわずか43銭(17年)、24銭(18年)である。苦しまぎれに、高利貸しや生産会社(この時代、殖産興業政策に協力の名目で設立された、銀行類似会社。実態はサラ金に近い)から借金するが、その借金額は17年に2億3千万円にのぼり、それはなんと同年の政府の経常歳入の2倍半に当たる。しかも利子は信じられない高さで、神奈川県南多摩郡では、米が1升5銭のとき(17年)、1戸あたりの借金額が108円を超えた。借金が返せないとなると「身代限り」(破産)であるが、その処分を受けた者が、14年には全国で7789人だったのが、16年には2万2492人、17年には2万7526人へとうなぎ登りにふえていった(後藤靖「自由民権」)。
 追い詰められた負債農民は、最初おづおづと、郡役所や生産会社へ負担軽減を嘆願し、聞き入れられないとなると、伝統的世直し一揆スタイルの「竹槍でどんと突き出す二分五厘」(明治10年、地租軽減を勝ち取った)と、むしろ旗を翻した。明治17年の農民紛争は全国で167件、明治期を通して最大の件数に達した。以前と異なる点は、自由党のオルグが入り、紛争に自由民権の色彩が添えられたことだった。
 東山養蚕地帯(福島・群馬・秩父・武相・静岡と、東山道沿いにならぶ地帯)は特に、明治10年代の好況時に、養蚕・製糸・織物等、農民による手工業(商品生産)が繁盛し、「愚昧ノ細民ハ前途ノ目的ナク驕奢ニ流レ」という光景も一部に見られたらしいが、おおかたは借入金で設備投資をまかなっており、「松方デフレ」は痛烈に効いて、家産を失った流民が増えていった。