多摩の自由民権運動(十)


自由民権(10-1)


三島通庸
国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

 三島通庸(みちつね)は、天保6年(1835)に、薩摩藩の鼓の師範の家に生まれた。武を尊ぶ気風の同藩で、鼓の教授で仕えるなど軟弱だと、一家は軽く見られていた。ある日、悪ガキが通庸の弟伝之丞(16歳)の前で、鼓を打つ真似をして、「太鼓(てこ)打ち」と嘲けった。伝之丞は年上のその少年に決闘を申し入れ、相手を斬り殺した。帰宅した伝之丞がそのことを父に告げると、父数右衛門は「よく士道をつくした」とほめ、伝之丞は、父・親類・知人の見守る中で、切腹して果てた。数右衛門はその日から鼓を手にしなくなった。ある日、決闘が行われた河原の水の中で、彼が半身を浸して正座しているのが発見された。気が狂っていた。家に連れ帰ると、刀を抜いて鼓を斬り、家人にも斬りかかるので、座敷牢へ押し込められた。
父はその中で、6年後に、死んだ。三島通庸が21歳の時、郷中(薩摩藩の青少年教育組織)で論語を講読する番が彼に回ってきた。彼が講義していると、聴いている一人がごろりと横になり、茶を飲んだ。通庸は「なんだそのざまは!」と叫ぶと、相手に飛びかかり、喉を締めあげた。二人は庭に飛び降り、相手は短刀を抜いて、通庸の胸に突き立てた(弟の事件があったので、通庸はついに刀を抜かなかった)。胸から息が漏れるほどの重傷だったが、彼はなんとか一命を取り留めることができた。幕末(文久2年、1862)に寺田屋事件(島津久光の上意討ち命令により、薩摩藩士同志が血で血を洗う斬り合いを演じた事件)が起きた時、三島通庸は討たれる側にいた。血の海となった座敷に彼は座り込んで、腹を切ると言い張り、生き残った同志の強い説得がなければ、ここで彼の人生は終わっていたであろう。前半生において、彼の人生はすでに波乱に満ちていた。
 薩摩閥に属していたから、出世は順調であった。長州征伐(西郷隆盛の下で小荷駄方、29歳)、戊辰戦争(大隊長、33歳)と従軍し、明治2年(34歳)、都城の地頭に任命され、官僚の道を歩み始める。明治4年、西郷隆盛の引きで東京府庁に入り(36歳)、銀座煉瓦街を出現させたことは前号で述べた。明治7年、酒田県令(39歳)、9年、山形県令(41歳)と順調に昇進していった。
 「土木県令」・「道路県令」の名に恥じず、三島通庸は赴任したこれらの土地で次々と土木事業を起こした。特に刈安新道建設で、栗子山トンネル(864メートル)を掘ったのは難工事だった。米国から当時世界に三台しかないという蒸気式穿孔機(人夫30人分の働きをする)を購入して、やり遂げた。
 明治14年9月の開通式には、東北・北海道巡幸中の明治天皇が臨席され、100円の下賜金と共に、この道を「万世大路」と名付けた。「ぬけたりと呼ぶ一声に夢さめて 通ふもうれし穴の初風」と三島はトンネル開通の喜びを詠んでいる(彼は歌人でもあったのだ)。