多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-9)

大久保利通 国立国会図書館(近代日本人の肖像)より

 大久保の辞表提出を聞いた西郷は、「薩人第一の腰抜けの辞表、はよう聞きとどけてくれやったもんせ」と笑った。大久保の強硬態度を知った岩倉はこれに同調して、自分も辞任すると言い出した。同じ17日に、西郷は閣議は決定したのだから速やかに天皇へ上奏するようにと三条を督促した。三条は一日だけ待ってくれと西郷へ言い、その晩、岩倉を訪問し、自分に協力して、西郷派遣を承諾して欲しいと哀願した。しかし岩倉に冷たく突き放され、37歳の小心な彼は惑乱状態に陥り、職務遂行不能となった。
 三条惑乱という新しい事態に直面し、大久保と策士伊藤は決定事項をひっくり返すべくすばやい行動に出た。大久保の真意は、征韓論議のみならず、西郷の意に反してでも、征韓派を政府から叩き出すという点にあった。まず岩倉に太政大臣代理に就任せよとの勅命が下るよう薩人・吉井友実(宮内少輔)を介して宮廷工作を行った。効果はすぐにあらわれ、10月20日に、天皇みずから臨幸して、三条実美を見舞い、その足で岩倉邸を訪れ、「摂行太政大臣を命じる」という勅語を下した。
 1の日と6の日は政府の休日なので、中1日置いた22日に、西郷は板垣、江藤、副島を伴って、岩倉邸を訪問し、閣議決定事項を早く天皇に上奏し、西郷渡韓を実施に移すように迫り、激論が交わされた。岩倉の仇名は「守宮(やもり)」で、浅黒い顔と政治上のしぶとさに由来する。彼はそのしぶとさを発揮して、上奏を迫る西郷以下3名の参議を前に、「余の眼晴の黒いあいだは、卿らの好きなようにはさせぬ」と言い放つた。「そげなこつまでいわっしゃるなら、わたいどんも閣下とはもうものもいう気がしもはん」と西郷は席を立ち、ほかの3人もあとにつづいた。門を出るとき、西郷は三人を振り返り、笑いながら、「岩公はにわかに今弁慶になりもした。よくも踏張いもしたが、そげんなったのもつまい大久保、木戸の後盾があればこそでごわんそ」と言った(村松剛「醒めた炎」による)。
 岩倉は23日に参内し、天皇に閣議決定事項を報告すると同時に、それに反対する自説を開陳し、自説採用を上奏した。21歳の天皇はそれを受け入れるしかなかった。西郷はそれを聞くとただちに辞表を提出した。翌日(10月24日)には板垣、江藤、後藤、副島もこれに続いた。西郷系・板垣系の軍人・官吏もぞくぞくと辞職した。かくて、この「明治六年政変」により、土肥勢力は後退し、薩長中心の「有司専制」体制(大久保時代)が確立した。