多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-8)

江藤新平 国立国会図書館(近代日本日本人の肖像)より

 司法卿の椅子に座るのは硬骨漢・江藤新平(肥前)で、これらの事件を長州閥打倒のチャンスとみていた。「民の司直」を標榜し、人身売買禁止令、復讐禁止令等、人権保護・司法権確立に辣腕を振るったこの男は、他方、「表面いかにも正直にて確乎たるようなれども、内心の狡猾なること実に恐るべき男なり」(佐々木高行)とか「江藤さんは行政の人ではありません(制度調査が適任)」(渋沢栄一)などと評されていた。
 尾去沢銅山事件ではじめ井上馨擁護に出た木戸も、やがて非が井上側にあることを知り、手を引く。彼はこのような郷党関係のことだけではなく、公務においても、精力的に外務省首脳より状況を聴取し、8月中に早くも征台佂韓反対、内治に専念すべしとの意見書を三条太政大臣へ提出した。
 伊藤博文は、帰国の翌日、旅行中不仲となった先輩木戸のもとへ挨拶に伺った。腹を割って話あうことにより、お互いのわだかまりは解消した。かって師の吉田松陰は弟子の伊藤を「学はおさないが、なかなか周旋家になりそうな」と評したが、この後、伊藤はその長所を発揮する。彼は木戸と大久保を和解させ、江藤を西郷より切り離して叩くという戦略の下に行動した。
 そして10月14日、新たに参議に任命された大久保利通・副島種臣に、帰国した岩倉具視を加え、征韓問題を議題に、閣僚会議が開かれた。
三条太政大臣に岩倉右大臣と8参議(西郷、板垣、大隈、後藤、江藤、大木、大久保、副島、木戸は病欠)という顔ぶれである。結局、この日は意見がまとまらず、結論は翌日に持ち越された。
 翌日、西郷はもう言うべきことは言ったと、これまでの経過をまとめた「始末書」を議長・三条へ提出し、閣議を欠席した。この閣議で反対を述べたのは大久保一人で、賛成派の板垣・副島と激論を交わした。結果として、西郷派遣は本決まりとなり、後は形式的な勅裁を待つだけとなった。大久保の内意を受けて、伊藤は暮夜、岩倉邸を訪れ、翻意をすすめたが岩倉は言質を与えなかった。状況は絶望的に見えた。大久保に結果を報告する伊藤は声を放って泣いた(彼が人前で泣いたのは多分この時だけであろう)。孤立した大久保は、翌翌日の17日に三条邸を訪問し、参議辞任・位階返上を申し出、この辞表の写しを岩倉へ送った。