多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-7)

征韓議論図 中央が西郷隆盛
明治10年(1877年)鈴木年基作 ウィキペディアより

 外務卿副島種臣は台湾問題で清国に出張中(明治6年3月~4月)、外務大輔寺島宗則は英国に赴任中だったので、外務少輔上野景範が事態を大政大臣三条実美に報告し、指示を仰いだ。
 留守政府は6月12日に閣議を開き、朝鮮問題を審議した。出席者は三条太政大臣と西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平の6参議である。居留民保護のため一個大隊を急派せよと好戦的発言をしたのは板垣だった。それを押さえて、まず使節を送って穏やかに交渉すべしと主張したのは西郷だった。実務官僚レベルではダメで、政府代表として大官を派遣すべきだと付け加えた。その代表には護衛兵を付け、軍艦でゆかせようと三条が言うと、いやそれもいけない、「烏帽子・直垂」の礼装・非武装で行くべきだと西郷は主張した。結局、この日の会議で結論は出なかった。
 その後、8月13日、17日と会議が開かれ、西郷の根回しが効を奏し、西郷派遣案は可決され、19日に上奏された。天皇はこれを了承したが、岩倉具視の帰国を待って、彼の意見も聞いた上で、再度上奏するようにと条件を付けた(内奏者・三条がその方向にリードしたと言われている)。
 こういう情勢下、使節団一行が帰国した。薩摩の大久保は、はやばやと休暇届けを出し、富士山に登ったり,紀州に遊んだりした。長州の木戸は、炎暑の中、病身に鞭打って、押し寄せる郷党人の(おおかたは情実処理を依頼する)陳情をさばかねばならなかった。
「来客絶えず、応接はなはだ困(くる)しむ」という文句が彼の当時の日記に三ヵ所も出てくる。「薩人は愚鈍、長人は狡猾」とは江藤新平の言であるが、この狡猾な長人が当時犯した犯罪を数えあげると、まず官金65万円を不法消費した元奇兵隊士・山城屋和助の事件で、これは前年末、一切の証拠を湮滅した上で、山城屋和助が陸軍省内で腹を切り、山県有朋が陸軍大輔・近衛都督の辞任を申し出ることでうやむやとなったが、尾去沢銅山事件と小野組転籍事件はただいま炎上中であった。前者は西郷隆盛に「三井の番頭さん」とからかわれた井上馨が南部藩御用達の村井茂兵衛が所有する銅山を、出入り商人を隠れ蓑に私物化しようとした事件で、鉱山には「従四位井上馨所有地」の摽が立てられていた(板垣などは、「井上は国賊だ」という激しい言葉さえ残している)。後者は京都の小野組が東京への移籍を願い出たのに、京都の長谷知事と槇村参事(共に長州人)が権力をかさにきて、不許可とした事件であった。