多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-5)

青木周蔵 ウィキペディアより

 旅はこのような笑い声に満ちてばかりはいなかった。ロンドンの宿で、木戸は、ベルリンに勉学中で、一行のためわざわざロンドンへ出て来た青木周蔵に、日本がキリスト教国化すれば不平等条約改正も容易になると説く者がおるが、どう思うかと質問した。青木は欧州における宗教戦争の悲惨さを述べて、「そういうことを実施するのなら、まず私の首を刎ねてからにしてください」と答えた。木戸はしばらく沈黙した後、かたわらに控えている伊藤に向かい、「貴公が平生説くところとまるで違うではないか」と恐ろしい剣幕で叱りつけた。木戸には「感情家」、「精緻に過ぎて困り者」(野村盛秀に宛てた五代友厚の手紙)という一面があった。
 旅の後半において、木戸と大久保・伊藤は互いに口をきかぬほど険悪な仲となった。明治6年3月、木戸・大久保に帰国命令が出た際、2人は一緒に帰国せず、使節団本隊と3班に分裂して帰国する有様だった。(大久保は3月28日岩倉一行と別れ、4月13日マルセーユ出港、5月26日横浜着。木戸は岩倉一行とロシアを訪問、4月16日にデンマークで一行と別れ、欧州各地を巡遊して、7月23日に横浜着。)
 このような不協和音に満ちた使節団が帰国すると、そこに待っていたのは征韓論であった。「条約は結びそこなひ金は捨て、世間へたいし(大使)何と岩倉」という狂歌も詠まれていた。
 征韓論の背後にあるのは派閥の権力闘争で、維新に出遅れた土肥勢力が主流派・薩長を追い落とそうとするあがきとそれへの薩長側からの反撃であった。
 そもそもこの海外視察団の発想は大隈重信(肥前、参議)のもので、彼は三条実美(公卿、太政大臣)を団長として、自分とその子分で行くつもりだった。条約改正を自分の手柄にし、薩長派に一泡ふかせようという魂胆である。その意図を察した大久保利通(薩摩、大蔵卿)は、条約改正の成否は政治主導権に係わる重要問題なので、自分が行くと言い出した。大隈は争わずあっさりと、先発・岩倉組、後発・三条組の案を受け入れた。彼の真意は大久保が占めている大蔵卿の椅子を取り上げるには、彼を海外へ追い出すしかないという点にあった。岩倉組は留守中に、残留組が勝手な真似をせぬよう、制度をいじらぬ等のこまごまとした「約定」を結んで出発した。