多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-4)

アメリカ号と同型といわれるジャパン号
米ハティントン美術館蔵

  「アメリカ号」がサンフランシスコへ入港したのは、明治4年(1871)12月6日(旧暦)であった。一行は途中、雪のため、ソルトレークシティーで18日間も足止めされたりして、ワシントンには1月21日に着いた。使節団の主目的は、表敬を兼ねた欧米視察・調査であり、副次的には不平等条約改正への打診であった。ところが、米国政府の手厚いもてなしに、条約改正の前途を楽観した一行は、つい森有礼駐米公使(彼が日本の公用語を英語にしろと主張したのは有名である)と伊藤博文の口車にのり、条約改正の本交渉もついでにやってしまおうという気を起こした。そのことを米国国務大臣Fishへ申し入れると、現行の日米条約は10年で改正と定められており、その年限も過ぎているので、「改正の商議に取掛らんことに異議はなけれども」その爲には全権委任状が必要だと述べた。それではと、大久保・伊藤の2人が、それを取るために、急いで日本へ引き返した(この往復に2月12日から6月17日まで費している)。この話は、その後、海外で条約改正を各個交渉で行うことは、「最恵国待遇」条項があるから不利である、ある国が一つ有利な条項を得れば、他の国は労せずして、「最恵国待遇」条項により、その有利な条項を享受できると指摘され、愕然として、沙汰やみとなった。木戸はこの頃、知人への手紙に、使節団へ加わったのは「一生の誤り」、「大後悔」と書き送っている。
 その後の一行の旅程は、ワシントン➞ロンドン➞パリ➞ベルリン➞ストックホルム➞コペンハーゲン➞ハーグ➞ブラッセル➞パリ➞マドリッド➞リスボン➞パリ➞ベルン➞ウイーン➞フィレンツェ➞ローマ➞ナポリ➞ベニス➞ウイーン➞マルセーユ(途中、アデン、コロンボ、サイゴン、香港、上海に寄港)➞横浜で、当初の予定を大幅に越え、本隊帰国は明治6年9月13日、1年10ヵ月の大旅行だった。各国における滞在期間は、米国7ヶ月、英国4ヵ月、フランス3ヵ月、ドイツとスイスが4週間、イタリア3週間、ロシアその他の国では約2週間であった。
 旅のホテルで、陽気な笑い声が湧くのはきまって伊藤博文の部屋だった。後年、鹿鳴館における戸田子爵夫人とのスキャンダルで有名な彼は、この頃も「箒」(掃いて捨てるほど女がいる)という仇名があり、パリ滞在中などは夜ごと、彼を擁した一群の人々が紅灯の巷へ繰り出すのだった。周防の貧農の子に生まれ、他人の飯を食う苦労を十分味っているはずの彼が、この頃は一箱8両もするシガーをくゆらせる豪勢さで、踊り子の紗の服が燃えるかどうかと、火をつける悪ふざけをするほど増長していた(博文の子伊藤真一氏談として、村松剛「醒めた炎」に紹介されている)。