多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-3)

岩倉使節団

 政府もまた学習の時代であった。泰西の文物を現地で実見して学習せんと岩倉具視を団長とする遣米欧使節団を乗せた米国太平洋汽船会社「アメリカ号」は明治4年(1871)11月12日、横浜港を出航した。港内に停泊中の軍艦「日進」や米英の軍艦は祝砲を鳴らし、その砲煙は波の上を漂った。西郷隆盛は離れゆく船を見送りながら、「あの船が太平洋で沈んだら、日本もずいぶん良くなるかもしれない」と冗談口を叩いた。かたわらの神奈川県令・陸奥宗光は「バカばかりが行く」とこれは本気でつぶやいた(三好徹「叛骨の人 大江卓」)。
 西郷・陸奥の悪口は、岩倉具視を始めとする5人の政府高官へ向けられたもので、一行のほぼ半数を占める留学生は対象外である。この中には、やがて自由民権運動の理論的指導者となる中江兆民(24歳)や帝国憲法起草者の一人となる金子堅太郎(18歳)、宮相・内相として大正・昭和の政界で活躍する牧野伸顕(9歳、大久保利通の次男。長男・利和、13歳も一緒)、三井財閥の総師となる団琢磨(13歳)等が混じっていた。また吉益亮子(14歳)、上田悌子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繁子(9歳)、津田梅子(7歳)の5名の女子留学生も乗船していた。この中で最年少の津田梅子が後年、女子英学塾(津田塾大学の前身)を興すことになる。使節団も特命全権大使の岩倉具視が47歳、副使・大久保利通42歳とこの2人だけが40代で、残り3人の副使は30代の若さだった(木戸孝允39歳、伊藤博文31歳、山口尚芳32歳)。総勢107名(当初計画では20数名だったのが、大規模な「外国視察隊」にふくれ上がってしまったのだ)。幕府はすでに5回欧米へ使節団を送っていたが、今回、新政府が派遣するのが最大規模であった。
  出港して船が日本から遠ざかるにつれ、伊藤博文を先頭とする「外国通」が巾を利かせ始めた。伊藤はその後「日本をキリスト教国にしてしまえ」などと言い出し、軽軰の伊藤を引き立ててやったという意識がある木戸はそういう彼を疎ましく眺めた。伊藤もまた木戸を敬遠して、もう一方の実力者・大久保へすり寄る風があった。