多摩の自由民権運動(一)

自由民権(1-10)

岩倉具視 国立国会図書館(近代日本人の肖像)より

 翌明治7年1月14日の夜8時すぎ、赤坂の仮皇居(現在の迎賓館である。江戸城西丸はこの年5月に火災で焼失し、ここが一時的に皇居になっていた)での晩餐会を終えた岩倉具視は、2頭だて馬車で二重橋前の岩倉邸に戻ろうとしていた。江戸城をめぐる外濠のうち、この喰違見附と隣の赤坂見附だけは橋ではなく盛り土の通路となっている(橋が燃え落ちる場合を想定し、築城段階からそのように設計されていた)。馬車がここに差し掛かると、土手に伏せていた数人が白刃をかざして襲いかかって来た。とっさに岩倉は席をはなれ、馭者台へ移った。馭者は切られて右がわへ落ちた。岩倉は眉の下と左腰を切られながら左がわへ落ちた。眉の下の傷は浅手だった。 腰はしたたかに切られたが、たばさんでいた小刀のおかげでこれまた浅手だった。岩倉はそのまま土手をころげ落ち、枯れ葦の茂る水中に落ちた(いま上智大学のグラウンド になっている場所である)。幕末にたびたび刺客に襲われた岩倉は場なれしていた。彼はすかさず着ていた黒い羽織を頭からかぶると枯れ葦の茂みに隠れ、息をひそめた。刺客の一人は提灯片手に急な斜面を下りて来て探したが、岩倉を発見できなかった。他方、馬が無人の馬車を曳いて戻ってきたので、岩倉邸は大騒ぎになった。やがて岩倉は自力で土手を這い上がり、通り掛った宮内省の下僚に助けられ、仮皇居へ戻った。暗殺団は武市熊吉(外務省十等出仕)とその弟喜久馬(陸軍少尉)を中心とする9人で、全員土佐人だった。現場に残された高歯下駄の裏に三つの黒点が焼印されていたことが手掛かりとなり、早くも1月16日に全員が逮捕された。容疑者は拷問にも屈せず自白しなかったが、名誉の切腹を許すという甘言に釣られて自白した。征韓論をつぶした元凶に天誅をというのが犯行の動機である。自白後、約束は反故にされ、全員打ち首にされた。「六年政変」に際し、薩摩では西郷従道を始め少なからぬ軍人・官員が政府側に留まったが、土佐はほぼ全員が政府を引き揚げ、野党化し、不平士族の一大根拠地と化していることが事件の背景をなしていた。
 岩倉遭難の2日前、1月12日に、下野した副島・後藤・江藤・板垣らは銀座の副島邸に集まり、愛国公党を結成した。このときの討議をもとに作られた「民選議院設立建白書」は、由利公正、小室信夫、古沢滋、岡本健三郎を加えた8名の署名を付して、1月17日 に左院へ提出された。かくて「自由民権運動」の季節が始まった。
(中村 聰)