多摩の自由民権運動(一)


自由民権(1-1)


 明治元年(1868)3月1日、甲陽鎭撫隊200余名は、甲府を目指し、江戸を出発した。
左肩を負傷している近藤勇は駕籠に乗り、土方歳三は乗馬で軍勢を指揮した。近藤勇の義兄弟の一人、佐藤彦五郎は日野農兵隊20数名を引き連れて一行に合流した。もう一人の義兄弟、小島鹿之助がひきいる小野路農兵隊にも参加の動きがあったが、こちらは実現しなかった。しかし動員令は、2月25日に、図師・下小山田・上小山田の堅甲会会員に発令された。堅甲会とは甲陽鎭撫隊を支援する農民武装集団で、小島鹿之助はこちらの参謀も務めていた。会頭は、小島鹿之助の義兄弟・石阪昌孝(当時の名は又次郎)27歳である。彼は野津田村名主を勤めていた。後年、政界で彼の右腕となる、同村の村野常右衛門(当時の名は磯吉)は、この時10歳、彼の政敵となる三鷹村の吉野泰三は彼と同年の27歳であった。3人とも近藤勇の門人(天然理心流)である。三多摩の自由民権運動は、石阪昌孝を中心として、やがて七尾村高幡(現日野市)の森久保作蔵(当時13歳)を加えた4人をリーダーとして展開して行く。
 文久3年(1863)4月に石阪昌孝は、先代が建てた自宅の剣術道場を改造し、お披露目している。この道場で竹刀を振り廻していた村野常右衛門も、明治16年(1883)に、凌霜館という名の文武道場を設立し、ここから多くの壮士が巣立っていった(その跡地にいま町田市立自由民権資料館が建つている)。