稲城市の歴史

 

毎日住んでいても意外と知らないことがあるものです。
まずは、わたしたちの町、稲城市の歴史について考えてみたいと思います。


ニュータウンの建設作業中、旧石器時代、縄文時代、古墳時代の遺跡がいくつも出てきました。
大丸には、奈良時代に、国分寺の瓦を焼いた跡も発見されています(大丸遺跡)。万葉集で「多摩の横山」と詠われたこのゆるやかな丘陵部(最も高い所が海抜160メートルで若葉台4丁目の北がその場所に当たります)には、古くから人の出入りがあった様子です。
しかし、ニュータウンが出来る以前に、人々がこの土地にたくさん住んだ形跡はありません。平尾にある稲城市郷土資料室には、昭和22年(1947)に米軍が撮影した「稲城市全域の空中写真」が大きなパネルになって展示されていますが、ニュータウン地域は、鶴川街道が一筋白く貫いているほかは、いちめんの森です。その森の木で焼いた炭が、「黒川炭」という銘柄品として江戸でもてはやされたと、「稲城市史」に記されています。
近・現代における行政区域としてのこの土地は、明治22年(1889)の町村制施行で東長沼、矢野口、大丸、百村、坂浜、平尾の六ヵ村が合併して稲城村が出来、その後、昭和32年(1957)に稲城町となり昭和46年(1971)に稲城市へと移り変りました。
昭和36年(1961)から38年(1963)に掛けて、住宅難緩和と多摩丘陵の乱開発防止を目的とした、「多摩ニュータウン計画」が東京都首都整備局によって立案されました。ところが、この第一次案(全域1600ヘクタール)に「稲城地区」は含まれておりません。